東美濃の山城

遺構に往時の雄姿を思い浮かべ、吹く風に武士(もののふ)たちの息づかいを感じる

平成29年に「東美濃の山城」が「岐阜の宝もの」に認定されて3年ほどが経ち、令和に入って世の山城ブームはますます盛り上がりの様相を呈しています。

全国に3~4万あるといわれている日本の城のうち、約99%が実は山城。そのほとんどが天守は現存せず、遺構の一部が残るばかりです。

 

では、何が皆の心をとらえて離さないのでしょうか。

その魅力は、遺構に往時の雄姿を思い浮かべ、知略を巡らせた縄張りに感嘆する、さらには、吹く風に武士(もののふ)たちの息づかいや姫君たちの衣擦れを感じること、つまりは、イマジネーションを持って歴史ロマンを感じるところにあるのではないでしょうか。

 

それでは、実際に「東美濃の山城」にご案内しましょう。



まずは、美濃金山城(可児市)。

信長の家臣、森可成(よしなり)が築城した石垣・瓦・建物礎石が残る織豊系城郭のモデルケースであり、当時の土木工事の技術や関ヶ原の戦い後の破城の生々しい痕跡が見られるのが特徴です。

さて、ウンチクはさておき、イメージしてください。知略に富んだ縄張を持つ堅牢な城に対峙する自分を。

 

我は益荒男(ますらお)、影のように出丸に忍び入り、一番槍は我こそと鬼神のごとく三の丸。虎口で矢の雨をくぐり、二の丸では手数に囲まれ、大刃傷の立ち回り。土塁を蹴あがり、堀切を跳び越え、野面の石垣をよじ登って本丸へ。待ち構えるは武勇の誉れ高き、十文字槍の使い手、森可成。相手にとって不足なし、やあやあ我こそは・・・。


続いては、日本三大山城の一つ、岩村城(恵那市)。

本丸は江戸諸藩の中でも最も高い標高717m、高低差180mの天嶮の地形、霧の湧きやすい気象までも巧みに利用した要害堅固な山城。その別名を「霧ケ城」と言います。

さて、御殿門を通り抜けたら、思いを馳せてください。戦乱の時代、運命に翻弄された悲劇の女城主の物語を。

 

其方は手弱女(たおやめ)、愛しき夫、遠山景任の死からわずか2カ月の後、武田二十四将の一人、秋山虎繁が岩村城を包囲。民の幸せ守るため、時の女城主、おつやの方は虎繁との婚姻を条件に無血開城。霧のたち込める岩村城の、六段壁のその彼方、櫓の窓から城下を眺め、麗しき人は夜毎によよとむせび泣く・・・。


最後は、霞ケ城の異名を持つ、苗木城(中津川市)。

江戸時代は苗木遠山家12代の居城として明治維新まで使われた山城。巨岩の上に建てられた天守や懸造(かけづくり)、年代毎に工法が違う石垣など、城郭建築の玉手箱です。

さて、一息ついたら、心行くまで景色を楽しんでください。浮世の喧騒を忘れる壮大なパノラマを。

 

我は天津風(あまつかぜ)、巨岩を孕む天守台から、彼方には、たおやかに連なる恵那山、眼下には、悠々と流れる碧玉の木曽川、そして、天空から見下ろす鳥瞰の城下。その絶景は、見るものを無常の境地に誘う。

♪天上影は変わらねど 栄枯は移る世の姿 映さんとてか今も尚 ああ荒城の夜半の月・・・(荒城の月 四番)



いかがでしたか?

グッときた人も、来なかった人も、まずは草鞋の紐をしめて、山城に行ってみてください。

「さあ、おのおのがた、イマジンして、キャッスルでハッスルしようではないか!!」

(N.S)