年が明けたばかりというのに、町にはすえた気配があった。
市井は、まだ御家騒動の余波を引きずっていた。
美濃路・大垣宿本陣の西隣で、旅籠屋「清貞」を営む清兵衛は、遅くなった新年のあいさつ回りを終え、帰路を急いでいた。
折からの不況で、新年の賑わい少なく、人通りはまばらだった。
そんな中、足早にすれ違うお侍は、見た顔の男だった。
「八田様」
「おお、清貞の」
足を止めて振り返った男は、大垣藩馬廻役 八田彦太夫だった。
「息災であったか、久しいな」
「はい、八田様。ありがとう御座います。八田様こそ、あの大役に続いて、御家騒動です。
御加減は如何で御座いましたでしょうか」
「そうだな、前に逢ったのは、、、」
「はい、お客様をご紹介頂いた一昨年でした。ご紹介頂いたあの方には、あの後、何度かお泊り頂きました。
しばらく、お目にかかっておりませんが、水も温くなりましたら、またお越し頂けるでしょうか。お会いするのが楽しみです。」
最初は、その場を早く立ち去りたい素振りもあった彦太夫だが、清兵衛のことばに興を覚えたようだ。
「気になるのか、あの方が」
「はい、どことなく、不思議な方でした。
夜はいつも遅くに出かけられ、夜更けにお戻りになりました。
お酒を好きでいらっしゃいましたので、戻られてからも、召し上がっておいででした。
そして、いつも決まって床柱にもたれかかり、腕を組んだままお眠りになっていました。
ただ、ふと目を開けられた時をお見かけしたことがありましたが、眠っていた目ではありませんでした。
本当は思い煩っていることがおありなのか、ずっと何かを思案されているのではないか、と思うことがありました。」
彦太夫は、一瞬、清兵衛を強く凝視すると、優しく応えた。
「あの方はもう、来られることはあるまいよ。
それに案ずるな、あの方の悩みはなくなり、雲は晴れたのだ」
彦太夫は、陽が落ちきった空をちらと見やった。
「あの方は、本懐を遂げられたのだ」
そう言うと、背を丸め足早に去っていった。
清兵衛にも合点がいった。
戸田のお殿様の従兄弟、浅野内匠頭様が城中で起こした事件。
赤穂城開城の使者として、赤穂に赴いた八田彦太夫が、紹介した人物。
そして、ひと月ほど前に、江戸本所松坂町で起きた出来事の報。
あの男が、播磨国赤穂藩の元筆頭家老、大石内蔵助良雄であったことを。
月にかかる雲はなく、冷めた光を放っていた。
元禄十六年の年は、明けたばかりである。
清貞は、この床柱が有名になり繁盛したが、明治二十四年の濃尾大震災で潰れてしまった。