大垣城

関ケ原合戦で石田三成の本営となった、西美濃の要衝。

西美濃の要衝、大垣城。四層四階の優美な天守は麋城(びじょう)・巨鹿城ともいわれ、大垣のシンボルとして、市民に広く親しまれている。

大垣城は、日本のほぼ中央、東西交通の要所に位置していたことから、戦国時代にはめまぐるしく城主が交代した。天下分け目といわれる戦いにも二度、その舞台として登場する。

1回目は天正11年(1583年)、本能寺の変で斃れた織田信長の後継をめぐり、柴田勝家と羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が戦った賤ヶ岳の戦いのとき。大垣城にいて柴田勝家方の攻撃を聞いた羽柴秀吉は、大垣から木之本までの約50kmを約10時間という神速で配下15,000の将兵を移動させ、戦いに勝利した。いわゆる「美濃大返し」である。

2回目は関ケ原の戦いのとき。豊臣秀吉の死去にはじまる徳川家康と石田三成の争いの中で、西軍の石田三成は、慶長5年(1600年)8月11日、大垣城に入城して西軍の本営とした。関ケ原での決戦より1カ月以上も前のことである。以来、福束城の戦いから岐阜城攻防戦、そして決戦前日の杭瀬川の戦いまで、東西両軍の主力の戦いは、大垣城を軸として展開する。9月15日の決戦の前夜、大垣城の石田三成ら西軍主力が突如として関ケ原に転進し、東軍もそれを追って関ケ原に進軍したことから関ケ原で決戦が行われたが、それまでは誰もが大垣城で天下分け目の決戦が行われるものと思っていた。

大垣城はその後、江戸時代には戸田家大垣藩十万石の居城となり、明治維新を迎える。天守はかろうじて破却を免れ、昭和11年(1936年)には旧国宝に指定された。だが、昭和20年(1945年)7月29日、大垣空襲により焼失。終戦わずか17日前のことだった。現在の天守は、昭和34年(1959年)に外観復元された天守で、内部は歴史資料館になっている。平成29年(2017年)には続日本百名城にも選ばれた。

旧国宝の木造天守こそ失われたが、大垣城には壮大な戦国のストーリーが眠っている。天守の4階に登れば、関ケ原の戦いで東西決戦に臨んだ石田三成の気分に浸ることができる。天守の石垣には、東軍の大垣城水攻めが可能だったことを感じさせる明治時代の大洪水の跡が残り、そのすぐ脇には大垣城落城の際にたらいに乗って堀を渡ったという「おあむ物語」ゆかりのおあむの松もある。

かつて三重の堀で守られていた壮大な惣構えは、水門川と牛屋川を除いては埋め立てられ、暗渠や小さな水路になってしまったが、かつての威容を思い浮かべながら、その痕跡を歩いてたどるのも楽しい。

歴史と水景に彩られた大垣城に、ぜひお越しください。(Y.I.)